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マンガコーナーの前身サイト

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ボンバースタジオ生誕25年記念企画その9
「マンガコーナーの前身サイト」

平成最終日まで「あと13日」
※2019年04月18日現在
エムシーネット山口県発アニメ情報ガイドの原点から当時山口県の出来事による紐を解く

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【写真1】
マンガコーナーの前身サイト
インターネットチャンネル
(2006年12月12日12時54分撮影)
※2006年12月12日時点で既に削除されています
(保存により保持されたためです)

2001年06月01日正午12時00分。いよいよ山口県新南陽市でウェブサイトが開局致しました。マンガコーナーが誕生する前は「チャンネル02」として漫画コーナー (MANGA-INFO) を開局しました。2001年06月01日当時は、まだ周南市として誕生しておらず、旧山口県新南陽市でした。本来なら、周南合併は2001年04月に実現するはずでした。ダサイと埼玉県の造語「ダ埼玉」と呼ばれていた埼玉県浦和市と大宮市と与野市の合併による「さいたま市」が2001年05月01日に発足されました。2001年は「平成13年」でした。1999年01月に旧山口県徳山市と下松市と旧新南陽市3市で法定合併協議会を設置した後に旧都濃郡鹿野町と旧熊毛郡熊毛町が加入されました。しかしながら、1999年12月に旧山口県新南陽市長選挙が実施されたことにより合併慎重派が当選されました。そこからほころびが出始め、2000年04月に山口県下松市長選挙が実施されたことにより同じく合併慎重派の井川成正さんが当選されました。2人の市長の合併慎重派が当選されたことにより、法定合併協議会の進捗状況にブレーキがかかりました。周南合併の余韻がありましたが、ウェブサイトが開局した時点で布告宣言を出したのが現在の「エムシーネット山口県発アニメ情報ガイド」です。2001年当時の管理人代表が、当時の山口県知事であった二井関成さんが打ち出した目玉事業のイベント「山口きらら博」に吸い込まれました。2001年09月30日に山口きらら博が閉幕した後、周南合併の話題に戻りましたが、山口県下松市の不協和音が始まりました。最後に全てまとまりましたが、合併期日に反対していた山口県下松市が離脱しました。1999年01月に法定合併協議会を設立した合併推進派の山口県下松市の市長が、市長選挙で敗退してしまったことが一因でした。

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【写真2】
JR徳山駅に停車した「のぞみ号」
(2003年10月01日11時08分撮影)
※カメラ更新時間に15分誤差あり

2003年04月21日に4市4町から3市2町を経由して2市2町で周南合併が実現しました。しかしながら、山口県のリーダーによる県庁所在地を目標としてきた夢は全て打ち砕かれました。2004年04月に山口県下松市長選挙が実施されましたが、同じく合併慎重派の井川成正さんが当選されました。これで周南合併は事実上「失敗」となりました。山口県東部の平成大合併は「山口県岩国市」のみ成功をおさめ、山口県玖珂郡和木町は単独町政を示唆しました。山口県柳井地域は、山口県熊毛郡田布施町の町長さんによる気まぐれな行動で、山口県熊毛郡平生町柳井市の合併計画に不協和音が起きました。山口県光市は、4市4町による周南合併の分裂により全く注目されませんでした。山口県萩市にとって「徳山に軸を移されないだけで助かった」と安堵していました。隣の山口県長門市は合併に成功しました。当時特例市となっていた山口県下関市は1市4町の合併に成功して「中核市」となりました。山口県エンターテイメント枠組構想案の始まりの起点となる基礎となりました。山口県内の新幹線駅で、2003年10月01日より「のぞみ号」が停車しましたが、旧小郡駅から改名した「新山口駅」に注目されることとなり山口県関係者が集まりました。徳山駅にも停車しましたが、山口県関係者はいませんでした。山口県の顔は「新山口駅」となりました。

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【写真3】
山口県下関市海峡ゆめタワー
(2004年11月20日15時02分撮影)

山口県下関市の「海峡ゆめタワー」は、「山口県国際総合センター」が正式名称です。高さは「153メートル」で、山口県が所轄している観光名所となりました。1996年06月に完成された時点で、山口県の都会と呼ばれています。別名「海峡メッセ下関」で、地上30階あります。この時点で、旧山口県徳山市は、敗北宣言を出されました。当時24歳の管理人代表は東京に在住しており、全く知る由もありませんでした。4市4町の周南合併は、旧山口県新南陽市の合併推進派が当選されましたが、既に手遅れで詰んでいました。撮影は2004年11月20日JR西日本下関地域鉄道部企画「2004下関鉄道まつり」に参加した後で撮影しました。

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【写真4】
山口県下関市「JR下関駅
(2004年11月20日15時31分撮影)

2004年11月20日当時の山口県下関市「JR下関駅」でした。駅舎が火災の被害に遭い、写真の面影がなくなりましたが一枚の撮影が貴重な写真でした。山陽新幹線では「新下関駅」ですが、山陽本線の「幡生駅」を経由して2駅往復として重宝されています。徳山駅からすれば新幹線だけは成功の一つとなりました。

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【写真5】
桜ケ丘高等学校応援団EXPRESS
(2004年10月17日13時53分撮影)

2004年10月17日当時の広島市で開催されました「鉄道の日」記念イベントに参加しました。管理人代表は広島新幹線運転所会場に足を運びました。偶然通りかかったところで新幹線の部品に「桜ケ丘高等学校応援団EXPRESS」が作られていました。「第71回全国高校野球選手権大会」が記載されておりましたが、調査した結果、1989年08月09日から08月22日まで阪神甲子園球場で開催された全国高等学校野球選手権で、元号はなんと「平成元年」でした。「第71回全国高校野球選手権大会」は、当時管理人代表は高校二年生の17歳で、旧山口県徳山市の「桜ケ丘高校」が山口代表として甲子園初出場を果たしました。桜ケ丘高校に勝利した東東京代表「帝京高校」は、1989年当時「2年ぶり3回目」の甲子園出場でした。南北海道代表「北海高校」は、1989年当時「5年ぶり29回目」の甲子園出場でした。1989年当時の管理人代表は、高校サッカー部の練習試合で旧山口県野田市の小野田工業高校グラウンドで宇部市内と旧小野田市内の高校サッカー部と練習試合を施行していました。

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【写真6】
平成最後の2019年04月18日ウェブサイト
(2019年04月18日01時43分撮影)

2001年当時のインターネットチャンネルの更新日時と同じ時間帯で撮影しました。18年前のウェブサイトと2019年04月18日01時43分54秒のウェブサイトを比較すると一目瞭然でした。2001年当時はブロードバンド元年で、まだダイヤル回線でインターネットをしていた時代でした。記憶装置はフロッピーディスクで、1.4MBの容量でデータを保存していました。Windowsは「Windows98」と「WindowsMe」が主流でした。現在は既に存在しません。今昔物語は速いスピードで進化していました。

平成最終日まで「あと13日」
※2019年04月18日現在
エムシーネット山口県発アニメ情報ガイドの原点から当時山口県の出来事による紐を解く